APMLから、興味の更新とその可搬性を考える (2)
前回の記事に早速言及頂いたので考えが揮発しないうちに続きを書いておきたい。
自分の興味が攪拌/更新され、世界が広がるサービスというのは間違いなく魅力的だが、そういった経験はある種のアクシデンタルな性格を帯びるはずだ。ゆえに、そういった経験を“期待してサービスを利用する”時点でそのアクシデント性は減耗してしまうという問題を孕んでいる。
このような問題に対して『計算不可能性を設計する』において宮台真司は、
アクシデント以前の「個人の興味にマッチする」という段階においても(今回の文脈に限定すれば)今だ極めて単純なアルゴリズムと仕組みしか持たないAmazonやGoogleがこのトピックの先行事例であることから、マッチングとは別に「新たな期待の地平をつくる」ことを同時にカヴァーする(ウェブ)サービスというのは当面出てこないと考えてよさそうだが、結局必ず直面する問題ではある。
APMLの描く方向性として、サービス横断的に興味関心情報を送受信していくことで、プッシュされる可能性のある情報もジャンル横断的に増加し、それに伴い上で言う「期待通りの」アクシデント性については早晩拡張することができるだろう。その次のフェーズとして、絶えず肯定的な意味で期待を裏切り続ける設計に耐えるAPML(かその代替)自身のアジャイルな更新(再設計)が見えてくる。
つまり、(これは完全に感覚的な意見だが)おそらくアーキテクチャ自身がその設計を設計し続けることでユーザーに対してアクシデントを提供する(といった設計をアーキテクトが行う)ことになっていくだろう。これは例えばAI(人工知能)分野にヒントがある気が直感的にするのでまた追って考えていきたい。
APMLによって、自分に興味のある情報が勝手に届く仕組みが実現されるわけだけれど、その便利さを享受しながらも、自分の世界を固定化するのではなくて、どんどん広げて行けるような仕掛けも欲しい。
APMLに考える個人の符号化という話 - WebGrove
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自分の興味が攪拌/更新され、世界が広がるサービスというのは間違いなく魅力的だが、そういった経験はある種のアクシデンタルな性格を帯びるはずだ。ゆえに、そういった経験を“期待してサービスを利用する”時点でそのアクシデント性は減耗してしまうという問題を孕んでいる。
このような問題に対して『計算不可能性を設計する』において宮台真司は、
ノイズやアクシデントを許容するアーキテクチャを設計する時、「期待通りのハプニングという非ハプニング」の逆説をどう脱パラドクスするか (P212)と提起した上で、アーキテクト(設計者)の設計に際する姿勢に関し、
アクシデントが続くべきだとしても、同じアクシデントの反復だと見做されないように、絶えずアーキテクチャを更新し、新たな期待の地平をつくり、先回りして期待を破るべきです。 (P213)と述べている。
アクシデント以前の「個人の興味にマッチする」という段階においても(今回の文脈に限定すれば)今だ極めて単純なアルゴリズムと仕組みしか持たないAmazonやGoogleがこのトピックの先行事例であることから、マッチングとは別に「新たな期待の地平をつくる」ことを同時にカヴァーする(ウェブ)サービスというのは当面出てこないと考えてよさそうだが、結局必ず直面する問題ではある。
APMLの描く方向性として、サービス横断的に興味関心情報を送受信していくことで、プッシュされる可能性のある情報もジャンル横断的に増加し、それに伴い上で言う「期待通りの」アクシデント性については早晩拡張することができるだろう。その次のフェーズとして、絶えず肯定的な意味で期待を裏切り続ける設計に耐えるAPML(かその代替)自身のアジャイルな更新(再設計)が見えてくる。
つまり、(これは完全に感覚的な意見だが)おそらくアーキテクチャ自身がその設計を設計し続けることでユーザーに対してアクシデントを提供する(といった設計をアーキテクトが行う)ことになっていくだろう。これは例えばAI(人工知能)分野にヒントがある気が直感的にするのでまた追って考えていきたい。
2 Comments:
いくつか連想もしくは発想したことがあったので列挙してみたい。
・カオス的なロジックをアーキテクチャに組み込んでいくことで、「自分の興味」を拡張していくシステムが生成できるという方法論は理解できる。ところでそこに至るまでの計算機内部での「ちょっとした」計算は、受け取る側の経験を奪うという結果になっていないか。
・興味の方向性がプライオリティをもって提示された場合、アクシデント性をもった方向を選択することは期待できるだろうか。より興味の方向性をデフォルメすることにならないだろうか。
・直感的な意見として、予測不能あるいは発想のジャンプというものが人間の思考にはないだろうか。もしあるとすれば、それを思考する猶予を与える、もしくはその思考を促するシステムというのは構築可能か。
『計算不可能性を設計する』は読んでないので、読んでみようと思います。
> kasagiさま
> ところでそこに至るまでの計算機内部での
>「ちょっとした」計算は、受け取る側
> の経験を奪うという結果になっていな
> いか。
懸念は尤もだと思います。「経験」の意図するところに拠りますが、情報を探索するプロセス全般のことでしょうか。
本文に準えて言うと、(上の意味での)「経験」を奪うことになるのは「アクシデントによる情報提供(演出)」より「マッチングによる情報提供」が、探索プロセスをスキップすることを助けると考えています。
本屋に行かずAmazonで買うことで、雑多な本棚の間をうろうろして探索する経験をしなくなります。
これは検索機能とオススメ機能によるマッチングの成果ですが、オススメに関してはまだ精度が伸びる余地があります(それこそAPMLの領分です)。
一方僕自身も本屋に行きますし、そこにはAmazonにないアクシデントの余地が今はまだ沢山あります。
今後Amazonのマッチング精度の改善余地が埋められ、本屋でのアクシデントの余地がAmazonに代替される(ようなアーキテクチャが実現した)とき、物理空間とサイバースペースの「経験」が本質的に異なるか否かという議論になります。
そこで「全然ちがうわバカもん」という意見と「変わんねーじゃん」という意見の(主に過去の経験をベースにした世代間論争的な)グラデーションになっていくのではないでしょうか。
> 興味の方向性がプライオリティを
> もって提示された場合、アクシデ
> ント性をもった方向を選択するこ
> とは期待できるだろうか。
これについてはユーザーの志向として「どちらか」ではなく「どちらも」ということになっていくのではと考えています。
自分の興味を徹底的に充足するものを求めると同時に、自分の今の興味からは想像もできないような情報/商品/サービスが出現して欲しいという願望を満たすこと。システム自身もそれに呼応して設計されていくと思います。
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